学校創立70周年にあわせ、井上勝也氏(6期・同志社大学名誉教授)が『吉川昇校長 人と思想』を著しました。(A4版・60ページ)
本書について ~「はじめに」より~
私は昭和23(1948)年に高槻中学校に入学し、29(1954)年に高槻高等学校を卒業した6期生である。昨年4月、母校が平成22(2010)年10月に創立70周年を迎えるにあたって、高槻の70年の歴史を研究する「歩み研究会」が発足し、その会長に推挙された。以後、ほぼ毎月研究会を開き、旧1期から40期(昭和の終わり)の卒業生に5回にわたって高槻での学校生活を語ってもらった。その結果、人生で最も多感で知識欲旺盛な6年間が卒業生の人間形成に極めて大きな意味を持つ時期であったことがわかってきた。とりわけ、初代校長吉川昇の時代(1941-61年)に学んだ卒業生からは異口同音に校長は「こわかったけれど、いい先生だった。」という言葉が返ってきた。校長からその後の人生に強烈な教育的感化を受けたというものが少なくなかった。私も校長のモットーである「真面目に、強く、上品に」を6年間の在学中に自家薬籠中のものとして、私の人生観の中核に据えた一人である。
高槻中学校は太平洋戦争勃発前年の昭和15(1940)年10月に学校設立の認可を受け、翌16(1941)年4月から授業を開始したが、昭和20(1945)年の敗戦に至る4年間は国家の危急存亡の秋(とき)であり、吉川校長は私学経営及び教学に困難の極みを体験した。
わが国は昭和20年の1学期まで徹底した国家主義・軍国主義教育を行ってきた。しかし2学期以降の手探りの民主主義教育は教育的価値観の180度の転換をもたらすことになり、当時の教師はもとより生徒たちも大きな戸惑いを隠しきれなかった。アメリカ占領軍は急激な民主化政策を押し進め、教育現場を混乱に落とし入れたが、高槻では吉川校長が占領軍主導の教育の民主化政策に抵抗を示し、彼の教育観によって高槻の独自性を堅持しようとした。吉川は戦中・戦後も思想がそれほどぶれない教育者であったといえる。
私立高槻中学校・高等学校は初代校長吉川昇によって学校の基礎が築かれ、発展の方向性が示されたといっても過言ではない。吉川は20年間校長職を務め、強力なリーダーシップを発揮し、75歳で昭和36(1961)年に退職したが、高槻70年の歴史を研究する上で、彼がどのような人物で、どのような思想の持ち主であったか、そしてどのような教育実践を行ったかを考究することが重要であると考える。もとより吉川研究に不可欠な基本資料を十分渉猟することができず、『黒馬(こくば) 吉川昇先生』をはじめ『高槻学園新聞』や秋山哲編著『吉川昇日記』などの資料と私を含む校長に直接教えを受けた卒業生の貴重な体験を用いて、吉川校長の人と思想及び実践を描くことに限界を感ずるが、敢えてそれに挑戦することを決意した。私の描く吉川伝が今後第二、第三の吉川伝を描く卒業生が出る誘い水になることを願っている。
『吉川昇校長 人と思想』目次
はじめに
Ⅰ 生い立ち
Ⅱ 吉川昇の教師修業時代(1908-41年)
Ⅲ 高槻中学校・高等学校校長時代(1941-61年)
Ⅳ 人間吉川昇
Ⅴ 一人息子建彦の急死
Ⅵ 吉川昇と妻菊枝
Ⅶ 吉川昇の晩年 ― 卒業生に囲まれて
おわりに 「真面目に、強く、上品に」